生まれることも死ぬことも商品だ。

しかし商品価値ってもんはある。

 

ワニの死はありふれていた。素朴な絵柄に素朴な結末。マンガとしてはきちんとした作風だったと思う。それ自体はまったく悪くない。ドラマチックを排除しつつ、100日読ませるワンアイデアは秀逸だった。結構感心していた。本になったら買おうかと思ってたぐらいではある。

 

ただ、書籍化より先は過剰だった。

 

うわっ、と思った。

 

要するにそう言うことだ。

 

泣ける、と言うジャンルがある。小説やマンガや映画、大体はなんらかの形で死を商品にしたもので、個人的にはそう宣伝された段階で泣きたいことなんか世の中いくらでもあるからあえて要らないよ、となるものだが気持ちよく泣きたい、という需要は確実にあり、商品価値は安定して高い。

 

ワニは泣けない。

 

その点での商品価値はない。

 

ありふれた死だからだ。寂しさは感じられるが、読者的にはわかっていた結末の上に三ヶ月程度の付き合いでもある。想像してみればいい。三ヶ月ぐらい職場を共にした知人の死で泣けるか? そう聞かされても泣くまではいかないだろう。人は死ぬのだとみんな知ってる。不運だなとは思うだろう。でもそれで終わりだ。よほどの泣きたがりでなければ、日常の1ページでしかない。

 

泣ける、まであのマンガを基本的スタンスを変えずに商品的に磨くとすれば1000日ぐらい書かないといけない。ワニが死ぬことがわかっていても付き合った読者にとって死んでほしくない存在になるまで頑張らなきゃいけなかった。あのマンガの途中の評判をみればわかることだが、どう死ぬか、にほとんどの関心が向けられていた。多くの読者にとってワニは友人でもなく、ただ余命の見えてる他人でしかなかった。

 

葬式に行く訳のない相手。

 

悼む理由がない。

 

ありふれた死の商品価値はそこまでである。ここに作者と読者の乖離があった。友人の死を下敷きにしたと言う話が本当ならば、不幸にも死んでしまった友人を盛大に弔うセレモニーの一種として追悼グッズの販売も位置付けられていたのかもしれない。ちょっとした香典を多くの人から集めて、その遺族に寄付しようとか、そんなまだ語られない善意さえあったかもしれない。先に言っていれば通った言い訳だが、これも時すでに遅い。

 

読者にとってのワニは死んだ他人だ。

 

追悼する理由がない。コロナで亡くなった人たちに他人がいちいち香典を送らないように、作者の友人のありふれた死のために金は払わない。勝手に追悼させられる立場に置かれること自体が業腹だ。不愉快と言ってもいい。

 

は? 死ぬワニを紹介したのお前じゃん。

 

なに悲しんでもらえると思ってんの?

 

100日ありふれた死ぬ前の冴えない日常を見せただけで何様ってことだ。商品価値がない。泣ける話ならば付加価値がある。笑える死に様ならくだらねぇと言いつつ追悼ショップを笑って眺めただろう。どんでん返しの驚きがあるような結末ならばマンガとしての出来の良さでファンになったかもしれない。

 

過剰だった。

 

広告代理店が絡んだかどうか、余韻が台無しかどうかは個人的にはどうでもいい。余韻もなにも、3日経てば忘れるぐらいの普通の死をそれなりに読ませるマンガとしてのアイデア。それだけが価値と言っていい作品なのに、まるで人気キャラクターの如く振る舞うワニと生み出した作者の自意識過剰っぷりが見ていて恥ずかしい。そういう反応だと思う。死んだ友人が本当にいるのなら、こんな形で晒し者にしたのは感性を疑うが、まぁ他人のことなので怒るほどでもない。

 

たぶん存在しないだろうしな。

 

疑ってるとかじゃなく、たぶん友人のその実像をあのワニは捉えられてないと思うからだ。ありふれた死、という言葉を繰り返したが、ワニ本人にとっての死があの瞬間どうだったかが描かれてないので、勝手に客観的に非ドラマチックに脚色されてつまらない扱いをされるように描ける作者が相手を友と思ってるとは思えないし、ワニにされた側が友と言うとも思えない。

 

こいつら友達じゃないだろ? って話。

 

後日談として、三途の川でワニに食われるなんか死んでたネズミぐらいを描くならまたマンガとしては別の味が出る気もするけど、映画化とか言ってそんなスラップスティックな展開にはしないだろうしな。うん。