アンパンマンが暴力的とか言いがかりにも限度がある

いくらなんでも表層的にものを捉えすぎだろ。

 

アンパンチは暴力だ。それは別に否定しない。しかし「やめるんだ、ばいきんまん」に代表されるセリフ通りアンパンマンばいきんまんに対して説得を試みない例は(多数の制作者が関わるが故におこるアニメ版のぶれを加味しても)ほぼないはずだ。

 

そして生かして返す。

 

かびるんるんのようなバイオ兵器的な兵士を使い、科学技術で度々アンパンマンを窮地に追い込み、自己研鑽を怠らない極まった悪であるばいきんまんの存在をも許している。その気になれば殲滅することも可能だろうが、彼はそうしない。

 

暴力を用いることと暴力的であることは根本から違う。

 

やなせたかしはどこかでアンパンマンばいきんまんはひとつの人間の中にある善と悪のようなものだ、と言う趣旨のことを言っていたと思うんだけど、そんな象徴的な説明を用いずとも、腹を空かせたばいきんまんアンパンマンが自分の顔をを差し出さないかを想像すればわかることだ。

 

あげないわけがない。

 

ばいきんまんは確実に恩を仇で返すだろうし、顔を渡したことでアンパンマンは弱体化して苦戦するだろうが、それでも飢えた相手にあんパンを食べさせない選択は彼にはない。そう言うヒーローなのだ。人間的ではないが、それがアンパンマンの正義であり、作品世界の理なのだ。だからこそ唯一無二、後にも先にもいない世代を超えて子供を惹きつける存在なのだと思う。

 

カッコいいとか強いとかよりもっと根源的な善性。

 

子供が熱狂するのはその揺らがない安心感を本能的に察知してるからだと思う。成長に伴って刺激が足りずに離れていくのも自然なのだ。刺激が足りないのは暴力が足りないからだと言ってもいい。アンパンチで暴力的に育つなら、なにを見たって暴力的になる。

 

そもそもこの世に暴力はあるのだ。

 

警察というシステムを暴力的だから存在するべきではない、なんて言う人は現実が見えてないと言わざるを得ないし、ゴキブリは生きているが人間の生活圏に現れれば殺すしかないし、風呂場のカビは除去の努力を怠れない。すべて排除される対象の立場になれば暴力だが、これを暴力的と言いはしないだろう。

 

問題は子育てへの意識の変化だろうか。

 

自分の子供が暴力的なら暴力を用いてでも親が躾をするべき、と言うのは20年前ぐらいまでなら反論すらなかったと思うのだけど、虐待が社会問題化したことで、躾の暴力と虐待の線引きができなくなってきているのかもしれない。とは思う。

 

今の時代に子育てをする親の心労は相当だ。

 

実際に暴力的になってしまう子供は一定数でるのか現実だと思う。その原因をアンパンチやらアンパンマンに求めるのは短絡的だが、なってしまったときにどうすればいいのかと言う解決策のないまま放置する社会に対して自衛するためにあらゆる暴力的刺激を排除したい過剰反応としては一定の理解と協力が必要なのかもしれない。

 

暴力的に育つ子供をどう教育するか。

 

別にアンパンマンを見るまでもなく、邪魔な相手を殴って泣かせれば勝てると気づくのは幼稚園や保育園の子供社会でも起こりうることだし、本能的にその適性を持つ人間がいるのも自然だと思う。説得をしたところで通じない相手がいるのは大人でもあるんだから子供なら尚更だ。

 

だから体罰が必要、と言うのは短絡的だけど。

 

しかし有効な対処法が確立されているのかと言えばそうじゃないのも確かだ。現代の価値観を尊重して体罰を否定した上で、ひとりひとりの親、ひとりひとりの保育士、ひとりひとりの教師にその確立しない暴力性への教育の責任を負わせるのが正しいことではないと思う。

 

繰り返すしかないのかもしれない。

 

アンパンマンばいきんまんの存在を許す代わりに戦いを終えることができない。それは善と悪の戦いに終わりなどなく、人間の持つ暴力性との戦いにも終わりはないのだと覚悟するしかないと言う世代を超えて伝わる作品のメッセージなのだろう。

 

戦うしかない。

 

愛と勇気だけが友達という言葉の重みは正義のために戦いつづけるアンパンマンの宿命の重さだろう。それを応援することが、一時的であれ、善が悪に勝る世界を維持するための非暴力的な視聴者の立場なのだと信じたい。